【起源:古代から江戸時代へ】
南信州の天竜川流域では、古くから渋柿の栽培が行われてきました。文献によれば、この地域で柿が栽培されていた歴史は500年以上前にさかのぼるとされ、柿の木は人々の暮らしの中に深く根付いていました。 江戸時代の後期には、現在の高森町市田地区周辺で「焼柿」と呼ばれる品種が知られるようになります。焼くと甘みが増して美味しいと評判になり、この柿が後の「市田柿」の原種となりました。天竜川沿いの段丘地は水はけが良く、昼夜の寒暖差も大きいため、渋柿の栽培に非常に適していたといわれています。こうして、市田地域は古くから「柿の里」としての基盤を築いていきました。
【明治時代:品種改良と栽培技術の確立】
明治時代に入ると、南信州では果樹栽培が盛んになり、農業技術の発展とともに柿の品質向上にも力が注がれました。地元の篤農家たちは、優れた果実を選び、接ぎ木や剪定といった技術を研究しながら、よりおいしい渋柿づくりを目指しました。 この頃から「焼柿」の栽培が市田地区を中心に広がり、やがて干し柿としての加工技術も発展していきます。晩秋の冷え込みと天竜川の川霧がもたらす独特の湿度が、干し柿づくりに最適な条件を生み出し、「ゆっくりと乾かすことで甘みが増す」製法が地域に定着していきました。
【大正時代:『市田柿』の誕生】
大正10年(1921年)、旧市田村の農家たちは、地元の渋柿を「市田柿」と名づけ、市場へ出荷を始めました。 それまで「焼柿」と呼ばれていた在来の柿が、このとき正式にブランド名を得たのです。東京や名古屋、大阪といった都市部の市場で高い評価を受け、南信州の特産品として知られるようになりました。 この頃には、皮をむいた柿を縄で吊るし、自然乾燥させる「柿すだれ」の風景が村のあちこちで見られるようになり、冬の風物詩として定着しました。
【昭和時代:戦中・戦後の復興と技術革新】
昭和初期から戦中にかけては、果樹栽培が一時的に抑制される時期もありましたが、戦後になると再び生産が活発化しました。 地域の農家たちは、干し柿の品質を保ちながら生産量を増やすため、栽培管理や乾燥技術の改良を重ねました。 硫黄薫蒸による殺菌・漂白技術の導入や、乾燥環境の調整、揉み工程の工夫など、現代の市田柿づくりにつながる加工法がこの時代に確立されていきます。 高度経済成長期には贈答品としての需要も高まり、「南信州=市田柿」というブランドイメージが全国に広がりました。